昭和44年12月22日  朝の御理解


  44節を頂きます。
  御理解第44節「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。」と。
  「神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」と、金光様の、おぉ御信心を頂いておれば、誰でも神になれると、それはまあ本質的に言えば、あ~うんなら、えぇ神の氏子としての、霊性というものを、皆がそなえておる、人間はみんな誰しもがそうだ、結局そのここに万物の霊長というような言葉を使っておられますように、その霊性が、あぁ本当に、え~、を霊性たらしめるということが信心なんだ、ね、言わば、あぁまあ霊光をはなすとでももうしましょうかね、自分の心の中にあるもの、それであるだけでは、その霊性を発揮しえなかったら、本当言うたら霊長、人間万物の霊長と言うけれど、霊長としての値打ちはないです、ね、だからその霊性が磨きだされると言うか、あ~霊性を発揮出けれる、う~、そこに信心の、お~いわゆる真の信心があるわけですけれども、だから金光様の御信心頂いておれば誰でも神様になれるということではない、ここで言うのは、あ~誰でもなら仏教で言うなら、死んだら仏様になる、お道の信心で言うたら、死んだら皆霊の神になると、そういう意味の神ではないと思うですね、霊性が磨き出されての神である、仏である、だから私共が、いわゆる、う~現世にある間に、言うならばより神様の資格というものを段々たかっ、高めておかなければならん、ということになりますね。
  そこでその「神になることを楽しみに信心せよ」ということは、例えば、え~、まあ今はえ~何百万でしょうね、けども昔はえ~( ? )百万円だった、百万円の宝くじっちいうのがありましたけどね、宝くじを買わして頂く、ね、万に一つでも、まあそれが当たるかもしれんとこう心に思う、ね、当たるかもしれん、だからそれが発表になるまでは、やっぱ楽しい、ね、それを心に描いただけでも、百万円の夢であります、ね、それを描いただけでも心が何か楽しい、しかも大変金に不自由しておる時などは、あ~それはまた(ひとしょう?)である、これがもし当たったら、ね、一遍に百万長者になれる、ようにその夢であったり雲をつかむような意味においての楽しみではなくて、ね、金光様の信心しおりゃ、死したる後、神様にまつられると、ことを楽しんでおるとするならですね、それは丁度百万円の宝くじを買って、その意味を楽しんでおるようなものです、ね、けれども例えば日々です、一生懸命働かしてもろうて、月々一万つづでも二万づつでも残っていきよる、ね、これが十年すりゃ、え~、百万円になる二百万円になるという、そういう夢、これはその夢じゃない、夢とじゃない、もう言うならば月々と言うか(?)です、これはね、なら銀行に預けてあるとするなら、銀行の、お~総長の貼示ると言うものは、去年よりも今年という風に、貼示が増えていくんです、ね、だからあの貼示るが増えていくから楽しいのである、このままこの調子で行けばと、またこれには利が量が、利を生んで行くような事になる、いよいよ楽しい、この生き方で行きゃぁ百万長者にもなれんことはないぞと、いう楽しみが、私は本当の楽しみだと思う、ね、だから夢のようなものじゃない、現実性がある、ね、私はここんところで、え~「死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」というのは、そういうことだと思う、信心をさして頂いて、今まで分からなかったことが分かる、いわゆる本当なことが分かる、本当なことを行じさして頂く、楽しみが出ける、そこから生まれてくる喜びがある、この調子で信心を続けて行けば、これは私でも神様になれるぞと、言うなら、我とわが心が拝めれる、我とわが心がまつれれる、自分にもなれるぞという、私は、楽しみが、ね、神にまつられる楽しみだと思うです、ですから去年よりも今年というようにです、ね、段々自分の心の上に、おかげを頂いておる、心のお繰り合わせが頂けれるということがです、楽しみにならなきゃなりません。
  言うなれば、心一つで、ね、心、それこそおそるべし心一つで、天地の自由になられるほどしのおかげを受けられるというのがお道の信心なんだ、大変なことなんだ、金光様の御信心とは、心一つで天地が動いて下さる天地が自由になるほどしのおかげが受けられる、というのがお道の信心、その心一つに信心の修行がかけられる、ね。
  自分の、お~霊性というもの、それをお道的に言うと、神の氏子、ね、ですからお互いがまずそういう霊性をそなえておる、神の氏子としての自覚がまず出来なければならない、ね、そこの自覚に立たせてもろうて、私は、教えを頂く、信心の修行をする、まあそこで、まあ、あ~そういういわゆる「わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」とおっしゃるように、自分の心が、あ~神に向こうていく、言わば死したる後これならば神にまるられるぞ、神になることが出来るぞと、いわゆる楽しめれる、その内容ですね、まあ具体的な例を二・三申し上げてみたいと思う。
  私は今朝方お夢を見せて、え~、デパートのようである、そのデパートが家事だとこう、私共はそれを、その鉄筋コンクリートですからもう普通、こう木造だともうどんどん燃えよるばってん、中がもう煙でいっぱいでどんどんその、まあ燃えておる、で消防車がくる、もう大変な困難状態、それがもう焼き落ちてしまって、もういわゆる焼き後のようなところ、はぁとうとう全焼やったばいなと、私それを見ておったら、中から沢山のそこの、まあデパートの、お~定員さん達であろう、女定員男定員を交ぜてですね、皆そこから沢山人が出てくるとが、皆この銘々に旗を持っておる、ね、そしてその旗に「お祝い」っち書いてある、ははぁ私は思いよるとですもん、ああ焼けたつはありゃぁ朝日屋じゃったばいの、昔久留米の朝日屋今のいずつ屋、朝日屋が焼けちからいずつ屋になったつは、あぁ、ああいうような風、そのまあ言うなら支配人が(?)ったから、あれがいずつ屋になったっじゃろうと思うところで目が覚めた、ね、心一つでということになる、ね、まあ言うならばですね、まあ昔から焼き太りということを、ね、こうしてまるほど全焼したけれどもね、必ず焼き太りになると、ということがもし分かっておるとするなら、それはその言わばごしおさま、ごしゅうしょうさまでもなかならなければ、はぁ大変なご災難でしたねっちいうことでもないのです、ね、やはりこれはより大きくなることのための、焼き太りであったのですから、それはやはりお祝いであった、そういう考え方が出来るようになる、それは本当のことがです、より真理と、ね、焼け太りになるというのはやはり一つの真理です、ね。
  今朝、夜の御祈念にある方のお願いをさしてもらい、心にかかることがあったから願いさしてもらいよったら、そしたら、あ~、ここの、今年は庭にいっぱいあの、沢山な南天が植えてございますよね、ここにはもうどこにもここにも南天がある、え~、工場のあれが一番南天の値打ちのある、この南天だそうですが、それがもうこんなに一色ぐらいの高さのでもみんな実をつけておるです今年は、真っ赤に、もうあのせんすの木のよりなんかこんなに低いです、それでもやっぱりみんな見事な実をつけてるんですよね、そしてもう早くから葉が赤くなって、実は真っ赤になってもう今とても奇麗なんです、そういう情景を頂くんですね、これは私植木屋さんから聞いたことですけれども、ここの、え~、塀、あの、石垣が出来ます時に、西側の方を全部、あの黐の木でしてございますよね、黐の木の(?)に黒い実がなります、ね、だからあの黒い実がなっとる時には肥料が切れとる時だそうですね、だから黒い実がなっとる時には肥料が切れる時じゃけん、肥料をやらにゃいかんちいう、言うなら枯れるわえ際せなんです、実が、実が実るということは、ね、もう自分は枯れるから、後にまた子孫を絶えしちゃならんから、もうちゃんと自然のそうした働きがですね、もう実をつけさして、その実が落ちでまた芽が出るということのためにですね、もう実が実るんだと、だから南天はどうか知りませんけれども、私はそのことから、まあ連想さしてもらって、今朝からですね、その方の事を願わしてもらっ、なるほど今その人は、まあ本当に若いのに実が実ってるという感じです、いわゆるおかげを受け、御利益を受けてるわけです、熱心に信心するわけじゃないですけれども、その実がみっ、勿論信心をしております、より信心を続けておりますけれども、なら朝参りとか日参といったようなことを、もない、それでもやはり私達はおかげを頂いとるというわけなんです、ね、ですから確かにその実が実ったり、え~葉がしこったりするだけの、その~芽というものが、やっぱりあることはあったんだけれどもです、もう自然はそういう前知らせをその人の上にしておるんですね、あれも成就した、まあ個人まりながらでもこれもまとまって行きよるというようなおかげを受けておるということはですね、実を言うと、それは、枯れるための前知らせであると、ね、私共が少しおかげを頂くとすぐ、う~まあ調子に乗りすぎる、ね、贅沢が、例えばもう当たり前のごとなってしまう、そして不平不足が多くなる、そういうようなですね、え~、例えおかげを受けてもそういうことのないだけの信心です、言うなら、実は実っても良いからです、ね、実は実らにゃできません、おかげを受けなきゃできません、けれどもおかげを受ければ受けるほど、信心が強うなるという信心、ね、この45節にも、おぉ次のね、ありますでしょ、ね、「三宝様は、え~実るほどかがむ、ね、人間は身代が出けたり、先生と言われたりするようになると、頭をさげることを忘れる。」とこう、教えておられますように、ね、私共が少し調子が出てくると、いわゆるあれも成就したこれも成就した、まるほど信心さして頂いておって行きよるのですから、信心の徳がそこに実ってきて、おかげを頂いておるわけでございます、おかげが現れておるわけですけれども、それは働いただけの、言わば信心の徳を積んだだけの、お~ことが出けておるのですから、それを今度は頂いてしもうたら、後はなくなる、だから実るほど、おかげを頂けば頂くほど、ね、頭を低うしていくということは、実れば実るほど、いよいよ実意丁寧な信心を続けていくという、おかげを頂かせてもらっておかんとです、ね、せっかくわが心が神に向こうていく信心をさして頂きよるとに、少しばっかり神様の、なりかけを、それはまたもとの、言うなら、あ~人間に変ってしまわなければならん、例えば狐狸でさえ神にまつられるということ、なんかでもですね、あの~人間以外のものはね、心一つで、え~心一つで天地を自由にされっ、するほどしのおかげは受けられん、人間だけ、心次第で幸せになれるというのは、ね。
  例えば人は「災難」と言う、人は「困ったことだ」と言うけれども、信心をさして頂いて本当な事が分からして頂くようになるとです、ね、それは有り難い事であり、それは、ね、それこそ(?)したいほどしに、めでたい事である、お祝いの一つもしなければならないほどしの、実は事なんだ、それを私共は悲嘆の縁に沈んだり、ね、そのために、おかげの、言わば幸せになれない、いわゆる心の状態になってしまったりするようなことではいけない、心が暗くなったり、卑屈になったり、ね、いよいよ明るく、いよいよ元気な心が出る信心、「これは、こん次にはどげなおかげを受けられるじゃろうか分からん」と思えるような心、ね、信心しておって、ね、難儀な事が起ってきたら、これ、こりゃ神様はこういう修行を求め給う、こういう修行さして下さる、ところを見ると、この修行の暁にはどげなおかげが受けるじゃろ、受けられるじゃろうかと楽しまれる心の状態、それがですね、そういう信心が神になり神にまつられることを楽しみに信心せよというのは、そういうことなんだ、ね、同時に、実らなければならん、おかげを受けなければならんどこじゃないけれどです、実れば実ったほど、おかげを受けたらおかげを受けたほど、ね、いわゆる頭が低う下がっていくようなおかげじゃなからなければ、あなたのおかげは本当なものではなくて、あなたのおかげはもう肥料が、枯れよるから実が実って行きよるのぞということになるのです、ね、これはもう天地のやはり道理です、ね、例えば植物なら植物の上にでも、そのような働きがあるのですから、ましては人間万物の霊長である人間の上にも、そういう働きが必ずあるのです、だからおかげ頂いたで有頂天になるわけにはいけん、信心も出けんのに、このようなおかげを頂いて勿体無い、勿体無いというのが低姿勢ということになり、勿体無いということがいよいよより有り難い信心を目指すことになる、ね、ところがもうそうなってくると、今まで十辺参っておったのを三辺ぐらいになって、まあ月参り、月一辺づつはまあお参りするけれどもといったようなことになってくる、いわゆる頭を下げることを忘れる、ね、人間にはなら、得てしてそういうようなものがあるのですから、そういうところがもう金輪際、出てこんですむようなおかげを受けなければならん。
  昨夜、もう(?)十時の御祈念を終わって、ここ下がろうとしよりましたら、え~、昨日は一日、え~、帰宅の方達が、あの~、椛目の元の、お~、御広前ですね、あそこの土地は、あ~借りてあったもんです、ですからそれを、を~、先方から「買ってくれ」という、う~採算のお願いがあっとったですけども、お~あまりに高い、ね、だから現在、(しゃくちゅだい?)の百年分ぐらいでどうじゃろうかというような話があったけど、そげなことは出けんと、こちら、それはこちらの言い分であった、今度はまた、それを、そのままこちらが、あの放ったらかしとったもんですから、向こうから手紙がまいりましてね、何とか、あの~買ってもらえんだろうかと言うて、それで今度、その今まで借りておった、二百年、二百年分(笑)、のを、を~金額で、まとまりましてね、昨日、正義さんを先頭に高橋さん、それから宮崎さんが、あ~そのことに、を受け持っておられましたから、昨日あちらがお話にみえられました、ところが以前のそういう(きょうくう?)なものではなくて、まあ向こうはバッと一斉にされるから、こちらも、お~、まあとにかく、まあ高かってもですね、高かっても、あ~、向こうも立ち行きこっちもおかげを受ければ良いのだから、あちらも立ちこちらもおかげ頂けれるために、たいっ、大抵な事は、まあ向こうの耳も聞こうということで向こうにまいりましたら、まあ良いところで、まあ(?)たのがまあ二百年分です、だから本当言うたらもうこげな馬鹿らしいことなか、もう買っとって借地代を払ったらどのくらい良いか分からんのだけれどね、やっぱそんなわけにはいけんから、まあ買わして頂くことになりました、それで昨日、え~、最後のところの(?)の方達に、相談して、そして決定書っちいうのを一応書いてみ、とうとう夕方、昨日丁度旗崎教会で、松概会の、お~会合があって、こっからも総代さん方が八名行っとりましたから、こちらへ帰ってきてもらって、その事の打ち合わせがありました、そんなわけならそんなら買いこさしてもらおうということに話が決まった、それで、昨日丁度晩にまた改めて、今度は経理の久保山さんも連れまして、昨日、お~勿体島の方ですから、勿体島の方へ、え~、最後の話し合いに行かれました、まあ円満に、まあ向こうも大変喜んでもらい、え~いわゆる、売買が、いわゆる何て言うですか、あ~、(?)と、(     ?    )やらをして、まあ手付けを打って昨日帰ってみえたのが、もう十時ちょっとすぎで、私がもうここを下がろうとしておる時であった、ですからその~、あ~売り渡し書をここに、お届帳につけて、それをう一辺御神前に出て、その事のまあ、買いっ、買いが出けたことを、神様にお礼を申さして頂いた、ね、そしたら神様はね、その事には、あの、いわゆる一つも、まあ買えたことを神様が一つも感動したものがないわけですね、言うならば「そりゃ良かったね」とは言うて下さらんわけです、ではなくてから、その先ほどに、どういう事かと言うと、御祈念前に、昨日福岡の月次祭でございましたから、山本さんと久富さんがいつもおいでられる、ね、ですから二人がね福岡に行かれた時の、行かれる状態を頂くんですよ、( ? )、やはり次々頂くことが、その昨日一日のここでの言わば、あ~、合楽教会の中心、大坪総一郎を基軸にして、こうやって生き生きとした働きがあっておるということ、ね、例えて言うと、昨日朝から企画の方達が、その事で、え~、御用を休んで、宮崎さん久富さん高橋さんあたりが勿体島の方へ交渉に行かれる、総代さん方は昼からのその総代会に、う~久留米の方へ、旗崎の方へ行かれる、え~、福岡の支部では月次祭だというので、こちらの担当の久富さんと山本さんが福岡の方へ行かれる、また夜は夜で、最後のために今度は久保山さんもまた交えて勿体島の方に、いわゆるその合楽全体が、その生き生きとそれぞれの御用のために、生き生きとして活動しておるということ、ね、その生き生きとした活動の状態が有り難いのであって、例えばそこの土地が手に入ったというような事が有り難いのじゃないんだと、いう風に私は感じたんです、だからあのその、土地がかっ、買わして頂いたということのお礼じゃなくてから、本当に朝から合楽教会が生き生きとして、そのようなそれぞれの持ち場立場においてです、みんながその御用にあたっておられる、いわゆる合楽教会が動いておる、活動しておる、しかも有り難いことに、ね、神様のお喜び頂けることのために、活動しておる、その事が有り難いのだということをです、お礼を申さして頂いたら、初めて神様がこう喜んで下さったという、感じなんです、ね、「それじゃ高かったね、安かったね、え~まあ丁度良い具合で話が出来たことがたかが良かったね」じゃなくて、そういう働きがあっておるということが有り難いのだ、それは土地だけのことじゃない、しかもそこにそれぞれの総代さん方は総代さん方、ね、企画の方は企画の方、ね、信心実習の、それにあたられる方達はあたられる方達です、ね、勿論御広前は御広前、昨日は日曜でもありましたから、あ~、もう午前中もう大変、ここが御広前がにぎあいました、ね、沢山のお参りがありましたがです、そういう一つの有り難いことのために、みんながそれぞれの持ち場立場でお役に立たせて頂いておる、御用に立たして頂いておる、ね、人の助かることのために、世のお役に立つことのために、合楽全体が奉仕しておる、神様の心に沿い奉る、奉仕をしておるという事そのことが有り難いのだと。
  今日私が皆さんに聞いて頂きました、44節、「狐狸でさえ神にまつられるということを、喜ぶと言うではないか」と、そして、人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよということは、私共がね、こういう生き方で行きよれば、必ずおかげになるという生き方をさして頂いておるということ、神様のお喜びを頂けれる御用をです、それぞれの、ね、自分の言わば持っておるもの、いわゆる自分のわが身に持てる真というものを、それぞれの立場で現していくという生き方、そういう生き方をさせて頂いておるから、神になることが、楽しい、いわゆる本当の楽しみというのはそれなんだ、百万円の宝くじをころって、これが当たるかも知れんといったような夢のようなものではないということ、同時に例えば、ね、火事で丸焼けさしっ、丸焼けになってもです、ね、その事を祝う、ね、その事を喜べれる心、本当な事が分かったらより大きくならして頂くための、これであったということを分からしてもらうから、旗行列の一つもせにゃおられんごとなっ、なってくるわけなのである、ね、同時にです、なら私共信心をこうさせて頂いておるが、なるほど、まあおかげを頂いて、あれも(?)、これも成就して行きよるというおかげを受けておるということは、これは丁度南天の実が実るように、これはもう枯れる前提ぞと、神様がお知らせ下さっておるのでありますから、おかげを頂けば頂くほど、ね、人から、ね、人間は身代が出けたり、先生と言われるようになると頭を下げることを忘れるということではない、おかげを頂けば頂くほど実意丁寧な信心も出けんのに勿体無い、このようなおかげを頂いてというような姿勢がいつも崩されんですむだけの、信心をです、させて頂いておらなければ、せっかく受けたおかげが途中でまた枯れてしまわなっ、もと、元に逆戻りしてしまうような結果になったんでは、これではいつまで経っても、神にまつられ神になることを楽しみの信心とは言えない、というようなことを、まあその事について三つの例を持ってその今日は聞いて頂いたわけですよね。
  どうぞ一つ、これはもう人間だけに許された、ね、いわゆる、頂いておるところの霊性、その霊性がです我情我欲に汚れまみれておって、霊性を発揮することは絶対に出来ません、ね、その霊性を発揮させて頂けれる道を教えて頂くのが信心だということにもなります、ね、御利益を頂くための信心じゃない、ね、わが心が神に向こうて行くということが、信心なんだ、ね、そのうんなら過程においてです、心掛けとしてです、なるほどこういう生き方で行けば、神にまつられ神になることが楽しめるという、ね、間違いのない楽しみを持っての、信心にならなければならないということであります。
                                                                       どうぞ。



入力者:誠輝